美術市場


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美術市場

 バブル末期の1990年をピークに、美術市場は低迷を続けていたが、最近2005年の高級品志向も加勢し、新たな動きが起こってきている。美術市場は画商や美術商が作家から買い取り、顧客に販売する1次市場(primary market)と、オークションなど顧客と顧客を結びつける2次(再販中古)市場(secondary market)に分けられる。その市場規模は2004年、1200億円から1300億円とも言われている。

200年遅れた市場システム

 かつて銀座を中心に画廊も数多くあったが、最近はその数も減り、画商や美術商を志す人も減ってきている。画商のほとんどが個店で、全国的にも数が少なく、日本にも優秀な現存作家が多くいるにもかかわらず、カバーされる作家の数も自ずと物理的に限られてくる。
 1次市場を担う美術品販売業者のほとんどが個人的信用関係で成り立っているが故に、業界の商慣行もあり、誰が何をいくらでどこで買ったかが公開されない傾向にある(守秘義務)。1次市場に流れた美術品は、価格維持機能を持つ美術商同士の交換会で他の美術商に渡り、流通経路に乗っていく。1次市場は作家と市場を結びつけ、大量生産できない美術品の値崩れを防ぐ重要な機能だが、統計データもオークション周辺や美術品輸出入統計のみであり、残念ながら(美術品特性故、必然的に)内輪的クローズドなイメージが払拭できていないのが現状だ。また、1次市場を担う画商や画廊経営者は、盗品混入を防ぐため、その地域の警察署から「古物商」の標札を得て経営を行っている。しかし、日本は盗難文化財を返還する国際協定ユニドロワ条約を批准していない(美術品盗品データベースはThe art loss register)。交換会を開催する画商の協同組合も、警察庁の監督下にあり、現在でも、制度的に古物商の世界のままなのである。美術品は現金預金、有価証券、不動産に次ぐ、4番目の資産と位置づけることができるのだが、主務官庁が文化庁でも経済産業省でも財務省でもない所が、美術品を孤立させているという面は否定できない。古物商機能も維持しながら美術品に関する法律と既存制度を見直すこと(および横の連携)が、世界レベルの美術市場を形成する第一歩だろう。
 2次流通市場では、欧米では、200年近い歴史を持つクリスティーズやサザビーズに代表される市場が確立されている一方、日本では1971年に初めて日本美術品競売株式会社(現・アートマスターズ)が設立されたが、規模も小さく、やっと走り出したばかりだ。美術市場は欧米より200年も遅れているのである。さらに中国やインドの美術市場の成長拡大が著しい状況だ。ただ、2次市場は作品自体の評価より、副次的要素(誰が所有していたかやブランド性、時価など)が大きく影響を与えるので、株価のように実体評価から乖離する傾向がある。鑑賞目的ではなく、投機目的の美術品転がしが蔓延する危険性もある。美術品転がしは作家と社会を愚弄する行為であり、そんな人間に所有されることを作家も画商も望まない。

経済価値と文化的価値

 美術品は一般商品とは異なり、文化財の側面を持っている。文化財は経済的価値のみならず、文化的価値をも生み出すという特徴がある。評価の定まった美術品を購入するという行為は、文化財に対する義務と責任を同時に負うということも意味するのである。美術品コレクター(所有者)は美術品の文化的価値を持続させる責任とその文化的公共性故に、社会一般に価値を還元しなければならない。短期的な投機目的でその義務と責任が果たせるのだろうか。2次市場ばかり見ていては公正な国内美術品の市場価格形成がイビツになり、また、1次市場の閉鎖性(独占・寡占市場)が続くようであれば、せっかく命と魂を削りながら緻密に制作された新たな作品が生まれても、人知れずに消えていくことになり、作家自身も浮かばれない。独占や寡占化による資源配分の歪み、悪影響を及ぼすマイナスの外部効果の拡大、情報の不均衡(非対称性)がある場合、公正な取引は阻害され、市場は失敗する。
 芸術は基本的に商業主義とは対峙するものだが、ウィリアム.D.グランプ(藤島泰輔・訳)は「名画の経済学」(ダイヤモンド社)の中で、芸術家は国家のおかかえにならず、自立すべきだとも主張している。美術品にも経済学用語でいう「効用」や「固有価値」が十分にある。加えて、心や魂を揺さぶるほどの幸福感をももたらす。また、市場化困難な領域(ボウモルのコスト病:演劇やオペラ、クラシック・コンサートなどの労働集約的芸術や医療・教育の分野)もあるので、企業メセナやスポンサー等、経済界の支援も制度的に必要不可欠だ。

新しい動き

 そんな中、2003年に日本で初めての美術品鑑別専門会社アート・アドバイザリー・バンクが設立され、2005年4月には40%以上のシェアを誇るシンワアートオークションが大阪の新興市場ヘラクレスに上場した。歴史的な有名大作家のハイ・アートな作品でなくても、美しいものを身近に壁に掛けたり、インテリアとして置いておきたいという欲求を持つ美術ファンは多く、若い新人作家への投資を希望するエンジェルの中でさえ、新人作家の情報が入ってこないと嘆いている人もいる。
 ところで、日本人の大好きな印象派(オルセー美術館)、19世紀に印象派が台頭してきた背景には、200年以上に渡ってフランスの美術界を支配してきたロイヤル・アカデミーが力を失ったことが上げられる。この頃、中産階級を主な顧客とした有力な画商などが登場し、美術商や批評家を仲介者とする新しい勢力がフランスの美術市場を形成していった。上流階級によって自由が制限されたロイヤル・アカデミーという旧来の制度から、美術商と批評家というより自由で開かれた緩やかなネットワークが形成されることによって新しい価値観として印象派は勢いを増し、美術革命を成功させることができたのである。当時の権威から見れば、ローアートだった印象派も、美術市場のイノベーションによってその地位を確立したケースといえるだろう。
 ごく一部の局所的な富裕層やコレクターはブランドが確立され、資産価値がありステータス・シンボルとなるハイアートで歴史的な美術品に大変興味を持っている。しかし、最も重要なのは教育による美術鑑賞能力(審美眼)の向上や、基盤となる富裕層でない大多数の人々が美術品を身近に入手できるような、価格透明性と開かれた流通と市場が形成されていることではないか。現在、まだ地位が確立されていないローアートの中にも、人々を癒し、生きる希望を与え、人を元気にする身近な音楽や身近で等身大の芸術作品が多数ある。そして、閉塞感を打破するのもアートの力だ。
 美術市場は未開拓な分野、新たな動きが始まったばかりだが、美術市場の活性化は、審美眼を持つコレクターの増加、出版社のように1次市場を担い新人作家を長期的観点から育てる美術商やギャラリストの増加、市場の透明化、美術品優遇税制など美術品位置付けの問題、社会的に制度化されたアーティストの地位の問題等、抜本的な改革が行われてはじめて可能となる。参入障壁があまりにも高すぎる独占市場は自滅の道、公正な取引に基づいた1次市場の改革および2次市場との補完的相互作用によってはじめて美術市場は活性化される。

 アメリカは世界の美術市場のシェア45.9%を占め、次いでイギリス26.9%、フランス6.4%、中国4.9%、ドイツ2.9%、イタリア2.8%、オランダ1.1%、スウェーデン1.1%、スペイン0.8%、その他7.2%と続いている(Artprice Global Index 2006)。経済大国になった日本の美術市場はその他の国の中でも、ほぼないに等しく、いまだ幕末の水準だ。
 一抹の希望は、画商と作家が互いに権威の山から下りて、ワクワクする現代アートを共同作業で作り上げるため、最前線で奮闘している姿である。

2006.07.25. 松村崇

審美眼を鍛える

 教育では中学校や高校での美術や音楽の時間数の極端な少なさ(文化資本が蓄積されない)、美大を卒業しても市場の存在しない日本では活動する場がないアーティストたち。ますます創造性の場が狭まれてきている。サルバドール・ダリやダヴィンチを例に出すまでもなく、ルネッサンス期に活躍した芸術家たちを見ても、ギリシア時代から科学と芸術は同源同根、芸術はビジョンを提示し、科学はそれを実現し、芸術は新たな使い道を提示する。アーツは学問の原点でもある。芸術の退化はやがて科学の退化をもたらすだろう。私は、美術市場だけに通用する地域通貨的な要素を持つ世界貨幣を導入してもいいのではないかと考えている。楽しみながら美術市場や美術品価値を学びたい方は細野不二彦著の漫画「ギャラリーフェイク(1〜32巻)」(小学館)、ギャラリストやアートビジネスを知るには、小山登美夫著「現代アートビジネス」(アスキー新書)や吉井仁実著「現代アートバブル」(光文社新書)をすすめる。

 真善美、正義は真、勇気は善、節制は美と結びつく。一方、知恵はある意味ではこれら三つの徳をすべて含んでいる。「私には実際何ができるでしょうか?」という質問を受ける。答えは簡単であって簡単ではない。各自が自分の心を整えること、というのがその答えである。このために必要な手引きは、科学・技術に求めても得られない。科学・技術の価値はすべてそれが仕える目的に左右されるからである。だが、我々は人類の英知の伝統の中にこの手引きを今でも見出すことができる。(シューマッハー)

 「普遍的な音楽の心」は誰の中にもある。私はそう信じている。すべての音楽はこの心と共に人々に語りかける。たとえ音楽が人々に語りかけても、人々が理解する音楽のスタイルはそれぞれ違う。時代や文化の異なる音楽を理解するには、あえて努力しなければならない場合もある。「音楽的判断よりもプロの判断を」と言われるが、私はこの意見に反対だ。私はプロの判断よりも素人の判断を信じている。音楽家に囲まれて過ごすプロたちには、普通の人々が持つ純粋さが無いからだ。(ビル・エヴァンス)

 ラディゲが教えてくれた。真に偉大なものは、偉大らしい様子を持ち得ないこと、真に新しいものは、新しい様子を持ち得ないこと、真に淡白なものは、淡白らしい様子を持ち得ないということを。彼はまた僕らに真の芸術家とは、アマチュア、即ち、辞書ラルースの完全な定義によれば、「職業にしないで詩を愛する人」だと教えてくれた。(ジャン・コクトー)